本作は、平野啓一郎が提唱する分人主義の到達点と言える傑作です。愛した夫が別人の名を使っていたという衝撃の謎から始まりますが、その核心にあるのはミステリーを超えた人間の魂の救済です。過去を捨て「別の人間」として生きようとする渇望は、アイデンティティの不確かさに揺れる現代人の孤独を鮮烈に浮き彫りにします。
弁護士・城戸の視点を通じ、読者は差別や血縁の呪縛、他者を理解する困難さを追体験します。重層的な社会問題を内包しながらも、最後には静謐な感動が魂を震わせる。本作は、何者かになろうとした男の生を肯定することで、私たち自身の存在の有り様をも優しく包み込んでくれる至高の文学体験なのです。