あらすじ
それでも、コーヒーは今日もうまい。
松尾純一郎、57歳。
大手ゼネコンを早期退職して、現在無職。妻子はあるが、大学二年生の娘・亜里砂が暮らすアパートへ妻の亜希子が移り住んで約半年、現在は別居中だ。
再就職のあてはないし、これといった趣味もない日々の中、ふらりと喫茶店に入る。コーヒーとタマゴサンドを味わい、せっかくだからもう一軒と歩きながら思いついた。
趣味は「喫茶店、それも純喫茶巡り」にしよう。
東銀座、新橋、学芸大学、アメ横、渋谷、池袋、京都──
「おいしいなあ」
「この味、この味」
コーヒーとその店の看板の味を楽しみながら各地を巡る純一郎には、苦い過去がある。妻の反対を押し切り、退職金を注ぎ込んで始めた喫茶店を半年で潰したのだ。
たくさんの問題を抱えながら、男は今日も喫茶店へ向かう。閉ざされた夢の扉は再び開かれるのか? 滋味深いグルメ×老後×働き方小説。
解説は、編集者の岡本仁氏。
ISBN: 9784094075427ASIN: 4094075429
作品考察・見どころ
原田ひ香氏が描くのは、人生の「苦味」を肯定する優しさに満ちた哲学です。本作の真髄は、夢に破れた男が喫茶店という停泊所を通じて、己の欠落と向き合う再生の過程にあります。社会的な肩書きを失った孤独を、贅沢な自己対話へと昇華させていく描写は、効率ばかりが求められる現代において、一度立ち止まることの豊かさを鮮やかに教えてくれます。 不器用な主人公が、過去の挫折さえも人生の滋味深い風味として味わおうとする姿は、あまりに愛おしく、読む者の心に深く染みわたります。閉ざされた夢の跡を辿りながら、それでもなお美味しい一杯を求める切実な希望。それこそが本書が放つ本質的な輝きであり、変わりゆく時代を生きる私たちの背中を、静かに、しかし力強く押してくれるのです。