あらすじ
本書は,インド仏教中観派の大学僧チャンドラキールティ造『入中論』及び『入中論自註』に対するチベット仏教ゲルク派の宗祖ツォンカパによる註釈『入中論広釈・密意解明』の初めての全文和訳である。
中観派は,2世紀頃にナーガールジュナが『根本中頌』等によって『般若経』の空の思想を論理的に解説したことから始まる。『入中論』は,7世紀にチャンドラキールティが『根本中頌』の内容に関して註釈したものであるが,その枠組みは菩薩の十地に基づきながら,内容としては十波羅蜜を述べており,菩薩の十地を経て果である仏の地に至るまでの過程を説明している。その意味で,『入中論』が扱う領域は『根本中頌』よりも広く,智慧と方便という仏教全体の内容が含まれている。
チャンドラキールティは,自性や実体の論理的な否定は,帰謬論証によってこそ成し得るとし,相手の主張に対して帰謬論証で反論し,相手に過失を気づかせることによって無自性や空を理解させて中観思想に導くべきことを主張した。また,勝義としてはもちろん,世俗や世間の概念・言葉の上でも自性や実体は存在しないこと,及び,一切は単なる依存関係で成り立っており,名称と分別によって仮説されたものであると主張した。その中で,他からの生起の否定においては,唯識学派の主張を述べて,彼らの主張するアーラヤ識,三性説,自己認識,外境の否定などを中観の視点から否定しながら,すべては縁起によって成り立っていることを証明する。唯識学派の他に,実在論者・自立論証派や外道も批判している。
チベットでは,全宗派(ゲルク派,ニンマ派,カギュ派,サキャ派)において,チャンドラキールティが明確にした帰謬論証派の見解が中観思想における究極的な立場であると承認されており,チベットの顕教の僧院では,『入中論』が中観学における根本テキストとして学ばれている。
ツォンカパの『入中論広釈・密意解明』は,『入中論』根本頌と『入中論自註』に基づいて著述されているが,その特徴は,『入中論』根本頌と自註の註釈文を合わせた説明になっていること,自立論証派と帰謬論証派の思想を詳しく比較検討していること,仏教論理学に基づいて説明すること,チャンドラキールティ以後のインドの各学派の大学僧の論書や註釈書を援用したり,チベットにおけるツォンカパ以前,あるいは同時代の学僧の見解や姿勢について批判したりすることにある。このように,『入中論自註』よりも扱っている範囲が広く,まさにインドからチベットに至る中観学の集大成とも言えるであろう。
『入中論広釈・密意解明』は,ツォンカパ最晩年の61歳の時の著作で,彼の中観思想に関する最終見解が述べられており,ゲルク派の僧院では,中観学を学ぶ際には『入中論自註』以上に『入中論広釈・密意解明』が重視されるに至っている。