あらすじ
〈親友のドガが十四行詩(ソネ)を創ってみようと思い立って一日中悪戦苦闘したが、とうとうものにならなかった。画家は詩人に「でもね、詩想(イデー)がないわけじゃないんだーーーたくさんあるーーーありまるほどあるんだーーー」と弁明がましく説明した。これを聞いて詩人は「詩(ソネ)は詩想(イデー)で作るものじゃないよ、ドガ、言葉で創るものなのさ」と言下に答えたという。ブランショはマラルメの言語にまるで落雷にでもあったように打ち砕かれた。詩的言語はなにも言わないために語る、これが詩的言語の理想。言語の沈黙ではなく語る沈黙、沈黙の言語。詩的言語即ち言語の言語自身への帰還。ブランショの断言「詩の言語はある個人の言葉ではない。詩的言語においては誰も語っていない、語っているのは誰でもない。ただ言葉だけが自らを語っているのだ。語の自発性。詩的言語は何物かを示したり何物かに語らせたりするのに使われるべきではない。語っているのは作者ではなく、作品言語、言語作品がみずからを語るのだ」(『文学空間』)作者は非人称とならなければならない、作者は言語行為の主体としては死ななければならない。マラルメの基本的命題。重要なのは〈私〉ではなく私の言語なのである。言語作品は世界を映し出す純粋な鏡。本書は目に見えながら物の見事に観過ごされてしまっている《あいうえお》の一覧表(タブロー)にさらにいわゆる《九九》の一覧表に詩的言語を見出し詩的言語の革命の起爆剤へと変容させその化学反応化の効果を露呈させる試みに過ぎない。と言ってもここに恣意的な作者はまったくの不在である。言語が言語を語っているだけ。詠み人知らず、匿名的(Anonymous)。本書が、即興的(Impromptu)とともに名指しているのは斯くなる故。すべてが引用からなっている書物を生涯夢想したのはベンヤミンである。その見果てぬ夢にさおさすこと。マラルメも彼なしには在りえなかったボードレール。ポール・ヴァレリーはかつて彼一流の遣り方で位置付けた。「ヴェルレーヌもマラルメもランボーも決定的な年頃に『悪の華』を紐解かなかったならばあのようにはならなかったでしょう。(---)ヴェルレーヌとランボーは感情と感覚の面でボードレールを継続したのに対してマラルメは完璧と詩的純粋性の面でこれを延長したのです」(「ボードレールの位置」1924年)。この厳然たる強度な共鳴関係(ユニゾン)こそは今やマラルメこそかつてのボードレールの位置に詩的に鎮座するものでありまたベンヤミンもかつてのボードレールの位置にエッセイ的にすっぽり嵌っていることの厳粛なる兆候であろう。あたかもベートーヴェンの11番弦楽四重奏曲が鳴り響く時間=空間。まことステファヌ・マラルメとヴァルター・ベンヤミンこそ今もなおアクチュアルな《独異言語即普遍言語》の見本なのだ。詠み人知らずは〈ひとり、途上にて〉試行錯誤する〈ものにつきしたがってものをしてかたらしめること〉(「夏の無伴奏」『蒼の痕跡』所収) を(---)