あらすじ
「ときどき思うのよ。偶然って、本当にあるのかしらって。この世には、私たちには見ることも、思い描くこともできない複雑な糸がはりめぐらされていて、その壮大な布の中では、どれもが、あるべきところにあるとしたら……」(本文より)
カタゼリム(降魔士)の少年・ジェードは、神と魔物、光と闇が共に宿っているとされる、神聖でありながらも恐ろしい聖域<闇の大井戸>で、魔物から聖なる蝶を守る役目を負って暮らしていた。ある日、ジェードの相棒である少女・ルクランが、聖なる蝶が舞い上がって来る予兆の鬼火に触れる事件が起きる。他のカタゼリムたちと違い、なぜか、予兆の鬼火に激しく反応してしまうルクランは、聖域を守る者のなかで波紋を呼んでいた。自分がなぜ、そんな反応をするのかを知りたいと願うルクランと、ルクランを守りたいと思うジェード。それぞれの思いをよそに、ふたりは壮大で複雑な運命の糸に絡め取られていく。
1999年から2001年にかけて、上橋菜穂子の代表作である『守り人』シリーズの創作と並行して執筆されたこの物語は、のちの『獣の奏者』、『鹿の王』、そして『香君』にもつながる、作者の創作の軌跡を知ることができる貴重な作品でありながら、これまで書籍化されていませんでした。
この物語は、人と人との関係だけでなく、人間と他の命ある存在との繊細で複雑なつながりを描きたいという著者の想いから生まれました。
執筆から20年以上の時を経て、円熟の域に達した著者の手で加筆修正され、力強くも美しい物語へと成長した物語が、ついに世界へと解き放たれます。
作品考察・見どころ
上橋菜穂子氏の筆致は、常に一個人の生を超えた大きな理のうねりを描きます。本作においても、運命という不可視の潮流に翻弄される人々の姿が、圧倒的なリアリティを伴う生態学的描写と共に描き出されています。生命が持つ根源的な躍動と、それでもなお自らの意志で光を掴もうとする個の祈りが重なり合い、読者の魂を激しく揺さぶる一冊です。 特筆すべきは、言語化の限界に挑むような情景描写の美しさです。羽ばたく蝶の残像が象徴する生と死の境界や、異文化が衝突し混ざり合う瞬間の熱量は、上橋文学の真骨頂と言えるでしょう。単なるファンタジーの枠を超え、現代を生きる我々に生の本質を問いかける本作は、まさに魂の救済を綴った壮大な抒情詩なのです。
